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近代金貨ミュージアムは、明治時代に発行された旧金貨を紹介するミュージアムサイトです。

近代金貨(旧金貨)サイト近代金貨ミュージアム

 

はじめに

店内イメージ

 日本の金貨(にほんのきんか)とは、日本で鋳造され発行、流通した金貨の総称であり、大判、小判、分金、本位金貨、記念金貨等がこれに相当する。

 ここでは、明治時代以降に新貨条例および貨幣法に基づいて造幣局にて鋳造、発行された本位貨幣の金貨について解説する。


日本の金貨史

料理イメージ

 明治政府は、それまでの小判、分金、穴銭などの貨幣に変えて近代的な洋式貨幣を発行すべく香港および英国から鋳造機を導入し明治3年11月27日(グレゴリオ暦1871年1月17日)から最初に銀貨の鋳造を初め、明治4年(1871年)8月から金貨が発行された。

 最初硬貨のデザインは英国に委ねる予定であったが、彫金師加納夏雄の優れた龍のデザインと彫刻が認められ、これが採用された。デザインに関しては欧州諸君主国の例に倣い表面に天皇の肖像を刻むことも考えられたが、古代より元首の支配権の象徴として貨幣に肖像が刻まれた西洋のような伝統をもたず、また貴人に拝謁するための身分資格を厳格に問う伝統のあった日本ではかえって不敬であるとされ、結果天子を表す龍図に替えられたようである。

 また、裏面には、天皇と皇室の紋章である菊紋「十六弁八重表菊紋」と、それに準じて格式あるとされる桐紋「五七桐花紋」があしらわれている。左右には月日を描いた錦の御旗、中央には日章と八稜鏡、およびそれを取り囲む菊と桐の枝飾りが配されている。

 新金貨においては、当時の中国が同様の龍図を用いた図案の硬貨を鋳造していた関係で、表面の図案は龍から「日の出る国」の象徴でもある日章図案および八稜鏡に変更されたうえ裏面に移り、裏面にあった菊花紋章は表面上部に移され、その左右から菊と桐の枝飾りが半分ずつ円を描くように配されている。

なお、硬貨の裏表については、造幣局の内規により旧金貨は龍図が表、また新金貨は日章が裏と決められた。

 江戸時代の両、分金銀に変わり通貨呼称を「円」と改め、先進国アメリカに習い1ドルを一円と定めました。これに伴い、アメリカ10ドル金貨の基準を用いて金重量と金品位を同様にし、日本初の10円金貨が誕生しました。

 加納夏雄という加納派の天才的彫金師の卓越した腕前に助けられ錦の御旗の中央に旭日を配置し上部に皇室を象徴する菊花紋を頂き、下部には桐のご紋章を頂くマスターピースを仕上げ世界から絶賛されたました。

龍図面は事に印象的な作往きでドラゴンボールを持つ龍が活写されていて、今にも動き出すかという程の迫力で見る者を圧倒します。

旧金貨は、日本貨幣史に燦然と輝くこれぞマスターピースと呼ぶに最も相応しい金貨です。


経緯

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 明治3年(1870)2月2日 英国東洋銀行、政府の委任により英人キンドルを造幣首長に任命、派遣契約成立。正式に3月3日に造幣首長に任命する。後の話であるが、この派遣契約がネックとなり威張り散らし横暴ぶりの行動と評判が悪かったキンドルを解雇しようとしたが、政府に雇用権が無く苦労した事が伝わっている(引用・日本貨幣物語)。

 新貨鋳造方案通告書(明治2年11月9日付)が海外に聞こえるや造幣首長キンドルこれに対して意見書を東洋銀行経由で論じた。まずは主に金銀品位の許容誤差範囲の内容である。さらに意見書で我国の本位貨幣をドルラル及びセントと価名を述べているが、これは「円・銭・厘」の日本語では無いので差し障りがなかったと思われる。当時の英国の香港植民地ではドルは圓(1864発行)、10セントは毫(1863発行)、1セントは仙(1863発行)、1ミルは文(1865発行)または千(1866発行)と表現されていた。次に銀本位の薦めであり東洋銀行支配人ロベルトソン氏もまた新貨の量目品位についてキンドルの説を賛成し、且つ大隈重信に文書(明治3年4月4日付)を送り日本政府はよろしく1「ドルラル」銀貨を以ってその本位貨幣となすべきであり、故に金本位にしない様にと言った。金銀複本位の制は従来欧州各国永年の経験で実際の運営でその非を認識している。しかし日本がもし複本位を採用すれば貨幣上の利益を減らし公益の損害になると勧告した。英国では金本位が実施されており余剰する銀の売り先として日本を考えキンドル・ロベルトソン共に銀本位を薦めているらしい。さらに新貨幣の補助銀貨の第二種二十五銭を停めて二十銭を鋳造すべきことを建議した。政府はキンドルの意見書を審議しこれを採用した。なお天皇の肖像を入れる様にキンドルが建議したが恐れ多いと龍図になった逸話は、キンドルはこの時期在日せずロベルトソンの可能性があるが明治貨政考要では未記載である。

 これより先2年12月始めて造幣機械の運転を試み明治3年9月9日になり機械ほぼ整い職員もまた配置した。極印が届き打製試作貨の試製にかかった、試作貨の種類ではまず1銭及び有孔1厘試作銅貨が明治3年(1870)9月に出来上がった、この内1銭の方が明治2年銘の円・銭の価名がある1銭銅貨であろう。1銭試作銅貨には明治2年銘のものが加納夏雄の陽刻銅貨に合致します。この極印は最初の日本製と思われます。明治3年銘1銭銅貨の裏デザインは菊と桐の枝飾りで囲み日本製極印の1円試作銀貨と同系のデザインです。有孔1厘銅貨は日銀・造幣局に現存するのみで年号銘も無く明治2年銘?であろうと推定されている。次に明治3年銘のある試作銀貨(1円 半円 4分1 10分1 20分1の5種類)を明治3年(1870)10月14日に打製試作、試作が完了したのは11月27日で、即銀貨の製造に入っている。

 明治3年11月12日政府は来年2月を以って新貨鋳造実行の期とする。その品位量目を確定するその表左のごとしと価名を正式に公表した(明治貨政考要 要約)

 最後に明治3年銘がある10円・5円・2円半の3種類の試作金貨が明治3年内に打製試作された。(引用・古銭第一巻甲賀博士記)。
 なお明治3年銘の試作貨で10円・5円金貨20分1銀貨は日本には無く英国王立造幣局にのみ現存する試作貨もあります。明治4年2月新貨幣発行の予定あったが、金本位制に変更に伴い明治4年(1871)5月10日に発行となった。

 明治4年5月公布の新貨条例(明治4年太政官布告第267号)で、圓(円)の金平価は1円=純金1.5gとされ、これに基づき、純度90%の本位金貨である1、2、5、10、20円金貨が鋳造、発行された。

 明治3年と4年銘の硬貨は、何分未経験の洋式硬貨の製造ということで鋳造が悪く、図案が不明瞭なものが多くあったため、明治5年(1872年)11月の太政官布告341号により、新たな鋳造機に使用する極印を作り、再鋳造された。この極印は少しサイズが小さかったため、1、2、5円金貨には同じ量目(質量)で直径の大きなものと小さなものの2種類が存在する。10円、20円金貨においては、新しい極印もほぼ同じサイズのためコインの直径にほとんど差異は無い。


加納夏雄のデザイン下絵

店内イメージ  明治初期の貨幣の図案・彫金は殆ど夏雄と弟子の益田友雄ぼ作製である。それらの下絵は、紙本墨図で現在造幣局や日本銀行に一部保されているが、全容は明らかでない。
 近年あるところから戦前、画家に原寸大(貨幣の8倍の大きさ)で写生された資料40点余りが発見され反響を呼んでいる。その一部がこの図である(出典:日本貨幣図鑑)。


錦の御旗

店内イメージ  錦の御旗(にしきのみはた)は、天皇(朝廷)の軍(官軍)の旗。略称錦旗(きんき)、別名菊章旗、日月旗。赤地の錦に、金色の日像・銀色の月像を刺繍したり、描いたりした旗(この日之御旗と月之御旗は二つ一組)。朝敵討伐の証として、天皇から官軍の大将に与える慣習がある。承久の乱(1221年(承久3年))に際し、後鳥羽上皇が配下の将に与えた物が、日本史上の錦旗の初見とされる。

・明治初期の時代(年史)と金貨の発行(←ここをクリック)

  
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